前世紀最高の芸術家

雪舟(1420年に備中国赤浜で生まれ、1506年に石見国益田で没す)は、本氏を小田といい、等楊(とうよう)、雲谷軒(うんこくけん)、備渓斎(びけいさい)などの呼び名も持つ室町時代の画家であり、水墨画の最高峰とされています。

雪舟は、中国画の画風をもとにして、それを日本画の美意識や感性に合わせて応用し、日本独自の水墨画風を確立しました。山水画、禅画、花鳥画などを描きました。雪舟の画風は、その筆使いの強さや激しさ、そして発想の強烈さに特徴があります。

出生から青年期まで、経歴

日本画の巨匠は往々にしてその生涯に未知の部分が多いものですが、雪舟の場合は、経歴や創作活動がきちんと記録に残されています。本氏は小田で、雪舟は号です(元の名前は不明)。10歳の時に、地元の禅寺である宝福寺に入ります。そこで、「柳のような」という意味の「等楊(とうよう)」という名を与えられたといいます。禅寺は当時、芸術・文化の中心であると同時に、精神・宗教活動の中心地でもありました。雪舟はそこで若い修行僧として宗教を学ぶだけでなく、書道や美術の訓練も受けることになります。

壮年期、作品

雪舟は、北京の宮廷や、中国の禅宗五山の一つである天童寺で名誉を得て、画家として頂点に立っていました。1469年、雪舟は日本に渡り、日本での名声を大きく高めました。最初は山口に戻ったと思われますが、その後(おそらく1476年)、豊後国に移り、海峡を隔てた土地に素朴で快適な隠れ家を作りました。そして、この地の穏やかさや美しさを表すかのように、自分の新居であり画房でもあるこの家を「天開図画樓」と名付けました。

この画房で、雪舟は代表的な絵画を何作も制作することになります。天開図画樓は、雪舟から中国へ渡ったときの話を聞きたい、絵画を学びたい、という客で賑わいました。雪舟はその後九州北部や日本各地を巡る旅に出ますが、その後1486年に山口に戻り、この地に新たに画房を構えました。石見国にも住んでいたという説がありますが、これについては不明のままです。雪舟の最後の地については、いくつかのお寺が、我が寺こそが雪舟の最後の地であると主張しています。

雪舟の手によるとされている作品はかなりの数に上りますが、そのどれだけが果たして真筆であるかどうかは、特に謎の多い部分とされています。雪舟の作品として知られる作品の何点かは、その卓越した質の高さや出所、落款などから、本物であることが疑いないとされています。

ただ、雪舟の印章やサインがある作品の中には、単にスタイルから判断して雪舟のものとされているだけで、実は雪舟のあまたの支持者が絵を学ぶために描いたものかもしれないと思われるものもあります。東京国立博物館には、雪舟の巻物の中でも最も真正な作品のほか、中国で描かれたとされる初期の山水画4点、そして晩年の作品3点が所蔵されています。

「秋冬山水図」には秋と冬のようすが2幅の懸物に表現されています。3幅目の懸物は、「潑墨(はつぼく)」という、墨をそそいでぼかす手法で描かれたパノラマ図で、「羽墨山水図」(正式名称は「山水図」)としてよく知られています。1495年に制作されたこの傑作は、雪舟の弟子である宗淵が雪舟のもとでの修行を終えて鎌倉に赴いた際に、雪舟から宗淵に贈られたものです。